Minimalenkon

れんこんが辛子レンコンになっていく過程

なぜ哲学者は疎まれるのか。彼らのミニマリズム

こんにちは、レンコンです。

 

台風が過ぎ去り、暑くなると思ったら、雨が降る。梅雨明けとはなんぞや? そんな心持ちでございます。

 

真に理性的な判断は、感情的で、経験からなる判断を超越する。

 

為すべきものが為すべきを為す

 

我々が自由意志に基づいて行動をしているかのように振る舞うこと、それら全ては、すでに全能者によって予定されていたもので、翻って考えると、我々の自由意志というのは、その所在が定かではないように思われる。

 

とまあ、定かでは無い記憶を辿りながら、3人の哲学者の言葉を、要素だけ引き抜いてまとめてみた。

 

カント、ニーチェスピノザ上から順に並んでいるが、面白いのは彼らの哲学と同時に、彼らの人生であろう。

 

カントは生涯独身を貫き、一日に一度しか食事を摂らず、食事の際は友人たちと長い間語りながらいた。

 

ニーチェは女性に振られたショックから、ツァラトゥストラにこのように語らせた。

 

スピノザのはユダヤ教を破門され、いかなる宗教にも改宗することなく、その人生を終えた。

 

哲学者は人生そのものが、実に際立っている。むしろだからこそ、彼らの思考形態は時代を超え、言語を超え、私の奥底に眠るものに語りかけるのだと思う。

 

哲学者には、余計なものはなにもない。瑣末とも言える彼らの周りのことが、全て求道へとつながるのだと思う。

 

拡大するとミニマリストは、ある種自身の真理へとむかう一つの思考形態を、ミニマリズムの中に見出した。だからこそ、哲学者とは少し異なり、瑣末な我々の身辺を排斥するのかもしれない。

 

瑣末さをどのように取り扱うか。哲学者はそれらの諸問題も含めて、思考形態を確立していった。

ものや諸問題も抱えたまま、彼らは真理という磨き上げられた、言い換えれば徹底的に瑣末さを取り除いたことにたどり着くことができた。

 

果たして、ミニマリストはいかなる「こと」にたどり着くのだろうか

 

さよなら、さよなら、さよなら