Minimalenkon

れんこんが辛子レンコンになっていく過程

ファッションが芸術になれない理由

こんにちはれんこんです。

そろそろ気温も上がり、梅雨になってきましたが、すでに夏を予感させる気候になってまいりましたね。急に気温が上がって、体調を崩したりしないように気をつけないといけませんね…

 

さて、今回は「ファッションが芸術になれない理由」という、少しディープなお話をします。

まず、この話題に入る前に、芸術とは?という素朴な疑問から、解説していこうと思います。

実は、芸術というものは、分野ごとにカテゴライズされています。その数は第1芸術から始まり、現時点では第11芸術まで存在しています。(この第11芸術あたりは多くの疑問や批判があるようですが…)

詳しく言うと、建築、彫刻、絵画、音楽、詩、演劇または写真、映画、テレビ、漫画、テレビゲーム(ヴィデオゲームと言っても良いのかもしれません)最後がデジタル芸術です。

数を数えると11個ありますね。

 

これらをおおよそ分類すると、建築、彫刻、絵画は空間芸術。つまり、物質として空間を占領、または空間内に存在することで芸術になっているものです。

一方、音楽、詩、演劇は時間芸術。ある時間の始まりから終わりまでが芸術であるというものです。言い換えれば、時間を占領し、時間の流れに沿って存在している芸術なのです。

これら以降の芸術は複合芸術(総合芸術)として、時間と空間の二つを占領し、かつ再生可能な芸術であると言えます。

 

では、芸術の諸要素としての空間と時間をファッションは占めることが出来るのでしょうか?

 

 

考えてみると、この問いはファッションの重要な要素を除外して考えているのです。

 

それは「経済性」です。

ここで言う経済性とは、便利で、機能的でという意味ではなく、文字どおり、経済活動を行っていくための要素であるという意味です。

 

ファッションは常に生産され、消費されていきます。さらにそれは2000年代に入って加速度的に、低廉化しています。ファストファッションの勃興や、ビッグ・メゾンのトレンド重視…類似ブランド、サブブランドの設立など…

 

ファッションは常に消費者を想定しています。しかも大衆としての消費者によって、芸術に本来あるはずの、創造者の想いは一部のデザイナーを除いては存在することが認められなくなっているのです。

これは、ファッションが服そのものが有効な装置なのではなく、身体に纏われることで、服の真価が発揮されることが起因するでしょう。つまり、主体は服ではなく、人間の身体なのです。

 

身体が主体となって芸術活動をするものは、舞踊が挙げられますが、舞踊は時間を占領する芸術として、ある対象に向かって任意の動きをします。(恣意的な動きを捉えた現代舞踊のようなものもあります)

しかし、ファッションは対象を想定しておらず、また、時間の占領(対象の時間と、行為者の時間が共有されていない)も行いません。

 

そして何よりもファッションが機能しているのは、身体を隠す、保護するという点であることも、他の芸術とは異なるのです。

芸術には「伝達」の機能が含まれていますが、服を身につける行為には、対象が想定されておらず、伝達の機能が果たされていません。

仮に、服そのものであれば、伝達の機能があるとも言えますが、それは副次的な機能でしかなく、根本に、服としての基本性能である、身体の保護が重要なのです。

 

以上が私の考える、「ファッションが芸術になれない理由」ですが、未だ考察不足の箇所も多いため、定期的に更新していきたいと思います。

 

では、さよなら、さよなら、さよなら。